これまでの日本に社会主義的政党はあっても、英国や米国のような保守政党は存在しなかった。自民党は「保守」を自称してきたが、世界から見れば一党独裁の社会主義政権である。それが官僚の作成した計画経済で高度成長を成し遂げた。その結果、世界でも例を見ない貧富の差の小さい一億総中流国家を作った。その成功体験を持つ自民党が、そもそもの力の源泉を投げ捨てて、英国や米国のような保守政党に脱皮できるのだろうか。かつての日本に自民党と対立する野党はなかった。メディアは旧社会党を野党と呼んだが、それは国民にこの国を民主主義と思わせる目くらましの虚構である。旧社会党は選挙に過半数の候補者を決して擁立せず、自民党単独政権を絶対にやめさせないところに存在理由があった。それが93年の自民党分裂まで続いた日本の政治構造である。

鳩山「埋蔵金があるじゃないか。埋蔵金をまわせば財源になる。」
谷垣「埋蔵金って言ってたけど国債発行しまくりなんだが、埋蔵金はどこ?」
鳩山「埋蔵金が無いといったのは自民党ではありませんか!」


驚くなよ

これ俺たちの国のトップなんだぜ

現実に起こっていることは、日本の頭脳である有名大学におけるデリバティブ汚染なのですから救われません。慶應義塾大学の365億円の損失はすでに報道されています。同大学は、今後は資産運用の路線を転換、仕組み債投資は凍結しました。
 早稲田大学は昨年度の決算で28億円の損失、現在は、評価損は81億円に達していますが、早稲田側は「証券会社が提示する参考価格は投げ売り価格で、合理的に確定された時価ではない」として「今後も為替のリスクを取りに行くことを全体で決定したうえで、その範囲で収益を上げていく方針」と言っています。さらに今までの投資を貫くという姿勢です。そして驚きは東京大学です。東大も仕組み債を5億円購入していたことを明らかにしたのです。
 早稲田側のコメント、為替のリスクは取りに行くのだ、という考えは、投資ですから、それでいいのですが、問題は、揃いも揃ってなぜ、すべての大学、経団連、地方自治体、地方銀行、幼稚園までが、円安に賭けるのですか? なぜ、すべての投資が損失方向なのですか? 円高になって儲かるところは一つもないではないですか? 考えてください!投資ですよ!どうして一方方向、すべて円安投資なのですか? おかしくありませんか? 日本中が狂っていませんか? 東大、早稲田、慶應、日本の頭脳ですよ!彼らはどんな頭をしているのですか? 揃いも揃って金融で大損、みんな円安でしか儲からない投資に巧みに追いやられていることが、わからないのですか!
クラボウは19日、インフルエンザを無害化する薬剤を繊維に加工する技術を広島大大学院と共同開発したと発表した。11月下旬から加工した繊維の販売を予定し、平成22年度に5億円、24年度に15億円の売り上げを見込んでいる。
「タダより高いものはない」とはよくいったもんです。タダなんて、怪しいです。なんでタダで使えるのか?それは、広告を見てもらえるからではありません。人の知恵を盗めるからです。人の知恵を盗むビジネスが一番儲かるのは当たり前です。
「自立させないようにして助けを求めさせ、それを与党が助けて票を得る」。これが自民党政権下の支配の構図である。そのために地方自治体も農業も自立できない仕組みにされた。自立できない者は自民党に助けを求め、自民党は保護の名目で公共事業や補助金をせっせと地方や農家に運んだ。こうして地方や農家が自民党の票田となった。それが自民党の長期政権を支えた。議員にとってこの役目は長く続く方が良い。つまり地方自治体や農業が自立して貰っては困る。こうして次第に目的と手段とが逆転していく。
後藤田正晴氏が官房長官の頃、「陳情」の光景を見ながらこう言った事がある。「陳情くらい無意味なものはない。陳情で物事が決まったら日本の政治はお終いだ。物事は国家的見地に立って決められる。陳情で決まる訳がない。ところが陳情で決まると思っている連中がこれだけやってくる。無駄な事なんだがなあ」。
長嶋茂雄はただ「守備しているときに来たボールは捕って投げる。攻撃しているときに来たボールはバットで打ち返す」ということだけに全身全霊をあげて打ち込んだプレイヤーである。
長嶋のプレイを見ているときに、私たちは彼の身体に想像的に嵌入することを通じて「野球そのもの」に触れることができた。
その意味で長嶋は一種の「巫者」であったと思う。
長嶋がそうであったように、卓越したパフォーマーに私たちが敬意を払うのは、その高度な能力を鑑賞することを娯楽として享受できるからではない。
そうではなくて、私たちの日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを拉致し去る「involveする力」に驚嘆するからである。
「大人」とは人間の社会的活動の意味を考量するときに「それをするといくらになるの?」というような「子どもじみた」問いを発しない人間のことである。
なぜ、そのことをしなければならないのか、その理由を「それがもたらす利益」によって実定的に言うことはできないが「どうしても、そのことをしておかないと、 『よくないこと』が起こりそうな気がする」という直感に基づいて、誰にも命じられず、誰にも責任の分担を求めず、固有名において「そのこと」を敢行できる人間、それが「大人」である。